ダンスミュージックから発展した音楽 |
バーボン ウイスキー ケンタッキー |
ケンタッキー州の東側に位置するアパラチア山脈。 |
最初にこの地に入植したのは、主に『スコッツ・アイルランド系移民』でした。 |
現在でも厳しく、閉ざされた環境。 |
その地を選んだ『スコッツ・アイルランド系移民』は、それにより自分たちの文化を守ろうとしたであろう背景がうかがえます。 |
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| 入植した移民たちが、最初に持ち込んだ楽器は『フィドル』。 | 『フィドル』とは『ヴァイオリン』の別称で、古くからヨーロッパで演奏され、ヨーロッパ各地で演奏される伝統音楽の中で、当時から重要なポジションを担っていました。 | 厳しい環境の中で生活していた移民たちの娯楽と言えば主にダンスで、農作業の終わった夜に集まった農民たちは、故郷から持ち込んだ1本の『フィドル』の演奏で、朝まで踊り続けました。 | バーボン ウイスキー ケンタッキー | その時に演奏されていた音楽はスコッツ・アイルランド系の継承音楽で、主にケルト民謡やヨーデルでした。 | のちにそれは様々な音楽の影響を受け、オールドタイム・ミュージックと呼ばれるアメリカ民謡の基礎となりました。 |
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余談ですが、現在の【ブルーグラス・ミュージック】と【カントリー・ミュージック】の違いには、この基礎となる伝統民謡的な部分の発展があります。 |
伝統民謡的部分を保ち続け、それにブルースを融合させ、民謡スタイルを保っている音楽が【ブルーグラス・ミュージック】。 |
伝統民謡的部分を基礎に、様々な音楽を取り入れ、商業的に変化し続けている音楽が【カントリー・ミュージック】。 |
日本の音楽で言えば、【日本民謡】と【演歌】とでも言うのでしょうか? |
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南北戦争終戦によって持ち込まれたバンジョー |
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1861年、『南北戦争』勃発。 |
『南北戦争』は、奴隷制存続を求めるアメリカ南部の11州がアメリカ合衆国から脱退し、アメリカ連合国を結成。 |
アメリカ合衆国に留まった北部の23州との間で内戦が起きました。 |
北軍と南軍の間に挟まれ、微妙な立場となったケンタッキー州を含むアパラチア地方は、この戦争で多大な被害をこうむりました。 |
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ところがこの戦争を機に、アパラチア伝統の音楽も変化を遂げていきます。 |
今まで閉ざされていた周辺の音楽と混じり合って行ったのでした。 |
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1865年、終戦。 |
その時戦争に従事したアパラチアの若者たちが『バンジョー』という楽器を抱えて戻って来て、アパラチア伝統音楽の中に取り入れたのでした。 |
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『バンジョー』は、北アフリカ・西アフリカで生まれた民族楽器。 |
17世紀に奴隷として運ばれてきた黒人たちが、アメリカに持ち込んだ楽器です。 |
大西洋を渡った当時の奴隷船は、カリブ海に浮かぶ島々に上陸。 |
『バンジョー』は、そこから黒人奴隷と共に、アメリカ南部地方へと広がっていきました。 |
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南北戦争終戦後、解放された南部の黒人たちと交流があったアパラチアの若者が、その独特な音色に魅せられ、持ち帰って来たのです。 |
その後アパラチアの伝統音楽は、大きな変化を遂げる事になりました。 |
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やはり戦争によって普及した楽器 |
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長い間スペインの植民地であったキューバが、独立運動を展開。 |
アメリカはキューバに加勢し、1898年にスペインとの間で『アメリカ・スペイン戦争』が勃発しました。 |
その結果アメリカが勝利し、キューバはアメリカの保護国として独立をしました。 |
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終戦後、アメリカ本土に戻ってきた兵士たちは、楽器を持ち帰って来ました。 |
まるで『南北戦争』の時のような歴史的背景と共に持ち込まれた楽器は『ギター』。 |
その後『ギター』は、急速に全米に普及しました。 |
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ところが当時、『ギター』はすでにアメリカ国内で生産されていました。 |
それは『アメリカ・スペイン戦争』終戦より、実に65年も前の事でした。 |
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1833年、ドイツから移住して来たギター職人の【クリスチャン・フレデリック・マーティン】一家は、ニューヨーク・ハドソン・ストリートに楽器店を開店させました。 |
ところが当時は『ギター』も流行前。 |
主に楽器の小売業を営んでいた【クリスチャン・フレデリック・マーティン】は、それに見切りをつけ、1839年には同店を閉店。 |
ペンシルバニア州ナザレスに移り住んで、『ギター』の製作業務に専念しました。 |
現在でも有名なギターメーカー【C・F・マーティン社】の前身の誕生です。 |
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| 1850年代頃から【マーティン社】の『ギター』は確立されて行きます。 | 現在でも人気の高い【マーティン・Dタイプ】は、1931年から製造が始まり、大きなボディーで大音量を得られるその『ギター』は、現在でも多くの【ブルーグラス・プレーヤー】たちが愛用しています。 | バーボン ウイスキー ケンタッキー | 1898年以降、急速に普及した『ギター』。 | その普及は【C・F・マーティン社】の製作台数にも表れ、『アメリカ・スペイン戦争』終戦前の平均製作台数が年間100台程度だったのに対し、同終戦後からは製作台数が急増。 | 当時の技術や工場の規模等により正確な比較はできませんが、1920年代後半には、すでに戦前の40倍以上の台数を、製作・販売していました。 |
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『ギター』はその後もいろいろなメーカーにより、さまざまな形状へと枝分かれしていきます。 |
どんな音楽にも合わせやすい『ギター』は、大衆化し、ますます全米へと広がっていきました。 |
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音量を得るために改良されたマンドリン |
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1870年代以降、アメリカ大陸に南欧や東欧からの移民が増えました。 |
新しい移民たちは、移民制限が行われる1920年代まで増え続け、その割合は古くからの移民の数を超えるほどでした。 |
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新しい移民たちは、新しい文化をアメリカに持ち込みます。 |
1800年代後半から不況にさいなまれたイタリアからの移民たちによって持ち込まれた楽器は『マンドリン』でした。 |
その後イタリアからの移民が増えると共に【マンドリン・オーケストラ・ブーム】がやってきました。 |
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当初使われていた『マンドリン』は、裏側が丸い『ボウルバック・タイプ』の物。 |
ところが、薄い板を整形して、何枚も組み合わせて作られた『ボウルバック・タイプ』の物では、充分な音量と音質を得られないという理由から、アメリカに渡った『マンドリン』は、現在『フラット・マンドリン』の大手メーカーである【ギブソン社】の創始者である【オーヴィル・ギブソン】の手によって、改造が施されました。 |
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1856年、イングランド移民の息子としてニューヨーク州シャトーゲイに生まれた【オーヴィル・ギブソン】が、『マンドリン』の製作を始めたのは1890年代の事。 |
当初は『ボウルバック・タイプ』の『マンドリン』を作っていたのですが、音量・音質共に充分なものを得られないという理由から、厚い板を削り出して作る方式を提案、結果『フラットバック・タイプ』の『マンドリン』が誕生しました。 |
『ボウルバック・タイプ』の物に比べると、圧倒的に手間がかかり、材料費もかかりましたが、それでも音量と音質を優先した【オーヴィル・ギブソン】は、1898年にそれを図版化し、特許を取得しました。 |
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1902年、個人工房で、主に『フラット・マンドリン』を作り続けていた【オーヴィル・ギブソン】の工房は、従業員を抱える会社組織の工房となりました。 |
【ギブソン・マンドリン・ギター・マニュファクチャリング・カンパニー】・・・現在の【ギブソン社】の前身の誕生です。 |
1910年、【ギブソン社】の『フラット・マンドリン』は改革が行われ、この時点で【ギブソン社】の『フラット・マンドリン』の仕様は、ほぼ決定しました。 |
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『フラットバック・タイプ』になったおかげで、充分な音量を得られた『マンドリン』は、急速にアメリカ全土に広がります。 |
『フラットバック・タイプ』になったおかげで梱包も便利になり、通信販売で広がったとも言われていますが、それは定かではありません。 |
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確立されたブルーグラス・ミュージック⇒ |